自殺と宗教〜キリスト教〜「罪」の解釈問い直す

自殺と宗教〜キリスト教〜「罪」の解釈問い直す
朝日新聞 2010/04/10
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キリスト教は「いのちは神に与えられたもの」という大前提から、自殺を「罪」としてきた。しかし、それにも疑問の声が上がっている。

関西学院大学神学部教授で、NCC日本キリスト教協議会)宗教研究所の研究員、土井健司氏は、昨秋の日本生命倫理学会で2人の重要な神学者の論考を再検討した。まず、アウグスティヌス(4〜5世紀)が『神の国』で、十戒の一つ「殺してはならない」を根拠に「自殺は神の律法で禁じられている」としたことを検証。全体の文脈から
①非常に特殊な状況下で、社会から死を迫られる者を想定していた
②「自殺は殺人」とまで訴えることで「死ぬ必要はない」と慰めようとするのが本意―などと指摘した。
さらにトマス・アクィナス(13世紀)の『神学大全』に言及。神との関係を重んじて「自殺してはならない」と述べている点は、「死ななくても神に忠実に生きることができる」ととらえ直す見方を論じた。

これとは別に、日本カトリック司教団2001年、公式メッセージで次のように謝罪している。「教会は『いのちを自ら断つことはいのちの主である神に対する大罪である』という立場から、これまで自殺者に対して、冷たく、裁き手として振る舞い、差別を助長してきました。今その事実を認め、わたしたちは深く反省します」。カトリックは以前の教会法で、自殺した人に対するミサや埋葬などの禁止を定めていた。

83年制定の新教会法でほとんどの規定が削られたものの、「罪」と見なす基本的な立場は変わらない。聖人とされるトマス・アクィナスは、神学とアリストテレスの哲学を融合させ、自殺に関する論理をつくり上げた。その教義をくつがえすのは、司教団にとって難しい。

そこで考えたのが、人の心に訴える「メッセージ」という形式だった。メッセージは、苦しみの闇のなかには2つの扉があると述べる。「簡単に開けられる、絶望の世界に導く扉」と「開けるのは難しいけれども、希望の世界に導く扉」。一方、遺族には「神は正義の神であると同時にあわれみの神でもあります」と語りかけ、すべてを神にゆだねるよう勧める。

カトリックは以前の教会法で、自殺した人に対するミサや埋葬などの禁止を定めていた。

ミサや埋葬の禁止は知らなかった。昔見たフランス映画で、心中した人の散骨の場面があったけど埋葬禁止だったんだ。

真如苑では、自殺者の霊は苦しみが大きく多いので、ねんごろにお施餓鬼を続けるようにしています。
私、霊界のことはよく分からないのですが、自殺はするもんじゃないと多くの霊能者が語っていますので、カトリックとは別の意味で、悪いことなんだろうと思ってます。