【決断の日本史】(4)769年8月 道鏡事件
【決断の日本史】(4)769年8月 道鏡事件
【決断の日本史】(4)769年8月 道鏡事件
2009.11.3 07:40
http://sankei.jp.msn.com/
このニュースのトピックス:歴史・考古学
「天皇は皇族から」女帝の真意道鏡といえば奈良時代、称徳(孝謙)女帝をたぶらかし、果ては皇位を望んだ悪僧とだれもが知っている。天平の政界は10年もの間、彼の存在によって迷走を続けた。
≪わが国開闢(かいびゃく)以来、君臣定まりぬ。天の日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒(こうちょ)を立てよ。無道の人は早く掃(はら)い除くべし≫
神護景雲3(769)年8月、宇佐八幡宮(大分県宇佐市)の神意を確かめるべく派遣された和気(わけの)清麻呂が持ち帰った有名な神託である。皇族でない人間を天皇にしてはならない、道鏡は追放せよと明言したのだった。
清麻呂はのちのちまで、「大忠臣」とたたえられる。ただし神託の背後には、道鏡の即位を阻止したい反称徳勢力の働きかけがあった、とみるのが古代史研究者の通説である。
しかし本当に、称徳女帝は道鏡を天皇にしたかったのだろうか。京都女子大学の瀧浪(たきなみ)貞子教授は自著『最後の女帝 孝謙天皇』(吉川弘文館)の中で、これに異議を唱えた。
「独身の女帝が病気を治してくれた道鏡を寵愛(ちょうあい)し、法王という例のない位に就け“共治政治”を行ったのは事実です。しかし、皇位を譲ることまでは考えていなかった」
実はこの時代、もう1人、皇位を意識した権力者がいた。藤原仲麻呂である。女帝の母・光明皇后の甥(おい)で、太政大臣となり力をふるった。道鏡の台頭に焦って兵を挙げ、逆に討たれてしまったのではあるが。
「天皇は皇族からという神託を持ち帰るよう命じたのは、ほかならぬ女帝だったと私は考えています。ただ清麻呂は“道鏡追放”という余計な託宣も付け加えた。女帝の願いは現状維持だったから、不満だったでしょう」
清麻呂は平城京を追放された。道鏡の怒りを鎮めるための処分だったのだろう。その女帝も翌年、病を得て亡くなり、道鏡は失脚した。清麻呂は召し返され、桓武天皇の世に至って、重く用いられるのである。(渡部裕明)